わが国ではバドミントン人気が高まっている。2002年から2008年までペアを組んでいた「オグ・シオ」に始まり、メディアでの露出が大きくなっていったこともあるだろうが何と言っても結果を残してきたことが大きいだろう。(女子ダブルスのタカ・マツペア、ヨネ・タナペア、ナガ・マツペア、フク・ヒロペア 女子シングルスの奥原、山口 男子シングルスの桃田 混合ダブルスのワタ・ガシペア 等々)
ただ、私に言わせれば「今頃か、やっと日本が杉山に追いついてきたな」なのである。何故ならば、杉山ではすでに1983年からバドミントン熱が高まりつつあったからだ。「バトミントンじゃないよ!バドミントンだよ」から始まり「バ(まるば)と言えば、バレーボールではなく、バスケットボールでもなくバドミントンだよ」「羽じゃないよ、シャトルだよ」基礎から教えこんでいった。
体育館に自分たちでバドミントンコート用のテープを貼り、やがては直接ペイントしてもらえるようになった。滑らない体育館用のワックス(ジムという名前だった)をかけてもらい、対外試合(今村病院、清和病院、中通病院、土崎信用金庫等)を行い、秋田市や大曲市(現、大仙市)で行われた大会にも出場した。(詳細はあゆみ1号、2号参照)
昼休みの体育館には病院のあらゆる部署から選手が集まった。(医局、栄養科、薬局、レントゲン、リハ科、相談室、医事課、看護部)まるで運営会議のようだ。皆、昼休みの60分に集中していた。
夜は夜で、黒紅戦(紅白戦じゃなく「こっこうせん」)を行った。激闘のあまりコート上では、メガネが砕けたり、誰かの歯が飛び散ったこともあった。何故、これほどまでに打ち込めるのだ?そこにコートがあり、馬鹿が沢山いたからだったろう。
そして冒頭の「オグ・シオ」である。彼女たちの登場でわが杉山バチームはバドミントン熱を日本国内に広げるという役割を次世代に託す事が出来たのであった。