それは昭和59年春のころ、病院の野球部の飲み会の後でした。
潟上市昭和(当時は昭和町)の地元で飲み、二次会の店を探して町内を数人で歩いていた時僕の上司が「なんでお前はいつも
その手提げを持っているんだ」と言って、僕が愛用していた酒屋の集金袋風の茶色のセカンドバッグを道路端の民家の車庫の
屋根に放り投げたのでした。当然バッグは屋根の上。
さすがに上司も「悪い」と思ったのかそこにしゃがみ込み、自分の肩を踏み台にして屋根に上れと言うのです。靴のままで
肩に足をかけ屋根に上りセカンドバッグを回収したのですが、屋根から降りるときにはさすがにまた肩を借りるのは申し訳なく、
「大丈夫です。飛び降ります」と言いました。そして忍者のように「フワリ」と着地するはずでした。
ところが酔った体はイメージ通りの着地ではなく、アスファルトの道路に尻から落下するという結果になってしまったのです。
「ズシッ」と脳の先にまで衝撃が走りその場にうずくまってしまいました。それでも飲んでなかった人が家まで送ってくれて、
2階の自室までは自力でたどり着いたのでした。酔いでマヒして痛みもあまり感じなかったのでしょう。
翌朝、尿意で目覚めトイレへ行こうとしたのですが腰と尻が痛くて起き上がることが出来ません。ほふく前進ならぬ、ほふく
後進(腹ばいになり、足の方から階段を降り)でトイレに向かい用を足しました。立っているだけでも辛いのにそんなときに
限っておしっこが出るわ、出るわ、止まりません。やっと終わり、ほふく前進で部屋に戻りました。
夕方になっても起き上がることが出来ず、心配した母が日赤の災害センター(今のにぎわい交流館Auの辺りにあった)へ連絡し
受診の予約をしました。五十の手習いで運転免許を取得した父(実質ほぼペーパードライバー)が車を車庫から出そうとして、
右側面を思いきりこすり、慌ててバックして返す刀で左後部をぶつけ、一瞬にして車は僕より重症になってしまいました。
結局タクシーで災害センターへ向かい即日入院となりました。
第一腰椎圧迫骨折とのことでした。
母から連絡を受けた上司が翌日見舞いに来て、飲み会の後に塀から落ちたことにしておいたと耳打ちしていきました。
「はい」とうなずいた僕はそれから飲み会の度に「飲んでから高いところに上るなよ」と言われる様になりました。
映画「蒲田行進曲」の階段落ちは見事でしたが、僕の「塀落ち」は少しだけかっこ悪いものになってしまいました。
入院2週間、自宅療養2週間の後、腰をギブスで固めた僕は職場復帰したのでした。
(*次回は入院中の出来事アラカルト)