僕が生まれたのは秋田市の中央病院。秋田大学医学部付属病院の前身だ。千秋公園の近く、今の循環器脳脊髄センターのところ。秋田市旭南の母の実家に2才まで暮らし、家を建てて手形に移った。小学校は「名門」の明徳。千秋公園の図書館、明徳館のある場所だった。自宅から学校までは2kmくらい。手形陸橋を歩いて渡り、公園内のアップダウンが通学路。低学年には厳しい距離だ。
で、同学年の男の子の中でも群を抜いて根性のない僕は4年生の冬の日、風邪の流行に乗って体温計(当時は「水銀」のヤツだ!)をお湯に入れ高熱を装って学校を休もうと企んだ。確かに「風邪気味」で微熱はあった。が、お湯に浸けた体温計を抜いてみると42度を振り切っていた。体温計を振って39度位まで下げて母に見せた。バレバレだった。
中学の冬。昭和48年度の所謂「48豪雪」のこと。体育館への渡り廊下の屋根が雪の重さで潰れた。学校は男子生徒全員(秋田東中学は当時全校1500人だったので750人が男子だった)にスコップを持参するよう発令(当時は学校の言うことに逆らうPTAは皆無)。授業中に校舎の屋根に登り男子みんなで雪下ろしを楽しんだ。今では考えられない対応だ。「落ちたらどうする?」「授業を止めて雪下ろし?」「専門業者がいるだろ!」・・・とてもいい時代だった。自分たちの学校を整えるんだ、という自覚と雪下しで貢献できたんだという喜びをしっかりと「楽しみながら」味わえた。生きた教育だったように思う。
高校の頃。母方の叔父は秋田市の市会議員だった。先日のサキガケに「「なかいち」で童っこの雪まつりを開催」の記事を見つけた。叔父が子供たちのために一生懸命に関わったイベント。当初は八橋公園を会場に「馬そり」まで出ていた記憶。高校生だったので祭りには参加しなかったが当時は毎年テレビのニュースに取り上げられてた。2006年の豪雪で八橋公園を「雪捨て場」に使用したため「雪まつり」は中止。何故かその後7年間開催せず、2013年に「なかいち」で復活したとの記事を読んだ。「箱ぞり」や「竹スキー」なんかは僕はリアルに知ってる。懐かしい冬の遊びだ。
大学の頃。1960年代から70年代の始めは「学生紛争」がスゴかったと聞く。赤軍(セキグンと読みます。アカグンじゃない)がどうの、革マル派がどうした、とか随分に耳にしてた。確か1980年冬1月。大学のキャンパスに「中核」と大書した「立て看板」が並び、所属する学生たちのマイクによる演説とシュプレヒコール、そしてハンストという示威行為により学年末試験の実施が不可能になって「レポート提出になった」と聞いた。「ラッキ~♬じゃあ、また3月末に会おうゼ」と僕は帰省。ところが、数日後友達から「試験再開!明日には戻れ~」との電話。。。
社会人になって。。。あっ、調子こいて書いてたら約1200字。社会人になってからの「冬」は次回に、ということにしますね~