(このコラムは5月26日朝に書いたのですが、リリースするの忘れ、27日朝にそのままの内容で発信します)
朝、クルマのエンジンを掛けるとナビから声が聞こえる。「今日は5月26日。ラッキーゾーンの日です。」…毎日、その日が何の日かを教えてくれる。「ラッキーゾーン」…甲子園球場のラッキーゾーンのことかな?日本で初めてラッキーゾーンが出来たのは甲子園だったんじゃないっけ?でも5月下旬に竣工なんてヘンな時期だね。野球開幕してなかったの?などと起きてから全く起動していないボーっとした頭でつまらないことを考えながら職場に向かう。平日の朝は毎日こんな感じだ。
話を本題に。。。5月26日は県民防災の日。39年前の今日、11時59分に日本海中部沖地震が発生した。「日本海では津波は起きない」という定説が覆された。津波の犠牲者は90人近くになった。
その日、配偶者は日本海(出戸浜)でウインドサーフィンをしていたそうだ。浜に上がるよう叫ぶサーフィン仲間の声に驚いてボードを引き上げるのがやっとで、浜に置いていたカセットレコーダー(当時はオシャレなアイテムでした)やビーチパラソルは流されちゃったそう。ご両親は津波の犠牲になったもの、と覚悟したと聞いた。
僕は、と言えば当時秋田市役所で臨時職員をしていた。その年の夏に「参議院選挙」があるためその準備室が設けられそこに配属された。旧市役所の裏手にあった「分館」。とてもテキトーな時代でバイトの身だったが自分で仕事の段取りをつけるとお昼をフライングしても注意もされなかった。で、11時59分。僕は既に分館3Fから出て、本館の噴水前にいた。近くの喫茶店で大好きなカレーと食べるため。。。瞬間、立っていられない位の大揺れが起きた。噴水の水は大きく波打って広場のタイルを濡らし、歩いていた女性たちはしゃがみ込んでいた。どれくらい揺れたかは覚えていないが、歩けるくらいに収まったのですぐに分館の部署へ戻った。キャビネットが倒れ、多くの書類が散乱していた。夕方勤務を終えての帰宅途中、石塀が倒壊してるのを目撃。手形の自宅まで約4km。当時流行りの「スズキのジェンマ」(50ccスクーターです。ホンダのタクトと並び人気機種でした。ヴェスパに少し似てたし。ま、どうでもいいネタでした)で街の変わりように驚きながら帰って、ニュースを見てまた驚いた。津波で男鹿がやられたと。。。
その翌日、5月27日に杉山病院の採用面接を受けた。クルマを持たない僕のため叔父が一緒に来てくれた。面接の後、叔父と2人で大潟村方面に向かい、地震の影響を目の当たりにした。真っすぐな道路が液状化のためグニャグニャに変形し、到底先には進めない。。。当時の事務長の面接で医事課配属での採用をいただき翌6月の第2週の月曜から就業することが出来た。自宅から片道20km。ミニバイクでは困難なため9月にクルマを購入した。ホンダのシティー。あれから39年。凄い年月が流れた。頭の中、心の中は全く成長しなかった。頭皮の衰退と腹部の出っ張りだけが時の流れを物語る。 やべっ。1200字超えでした。